今日6/16は和菓子の日
なんでかって?ぜひこの動画を見てくださいね
大阪では「笑わず餅」というお菓子も生まれました。と言ってももう20年以上も前の事です。今年は特にメディアによく取り上げられました。認知度も上がってきたようで嬉しいです
●松田なんで店をつくったのか? https://w-anan.jp/about/
今日6/16は和菓子の日
なんでかって?ぜひこの動画を見てくださいね
大阪では「笑わず餅」というお菓子も生まれました。と言ってももう20年以上も前の事です。今年は特にメディアによく取り上げられました。認知度も上がってきたようで嬉しいです
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田道間守(たじまもり)っていう人の名前を聞いた人はそんなに多くないと思います。僕もこの世界に入るまでは聞いたことがありませんでした。
製菓学校に入ってお菓子の歴史っていうのを習うのですが、最初に出てくる人物ってやはりこの田道間守さんなんです。かの有名な「日本書紀」や「古事記」にも出てくる由緒正しい人なんですよ。
お菓子に関係あるって言うても別に日本最古の和菓子職人って訳ではなくて、何をした人かというと、第11代天皇である垂仁天皇(すいにんてんのう)の命令で不老不死の食べ物を探しに行った人なんです。
不老不死の食べ物?正確にいうと不老長寿の妙薬「非時香果」すなわち橘を探しに常世の国(とこよのくに)に行ったそうで、そこで何と橘を見つけ持って帰ったのです。任務完了!
しかし、時すでに遅し。垂仁天皇は崩御された後で、間に合わなかったのです。悲しみに暮れた田道間守は自害し天皇の後を追ったのでした。
もっとも、垂仁天皇は140歳まで生きたという事ですから、不老長寿の実を食べる事もなく十分に長生きしましたよね^ ^(最もこの頃の歳の数え方の概念が現在とは違うという説もあり実際には70歳程ではないかとの考え方もあります)
その橘はお菓子の祖先とされ、橘や田道間守を祀る神社はいくつかあります。(後に出てくる林浄因を祀る神社などの菓子にまつわる神社もあります)
中嶋神社(兵庫)
https://toyooka-cci.jp/tajimamori/
吉田神社(京都)
http://www.yoshidajinja.com/yuisyo.htm
橘本神社(和歌山)
http://www.katuragi.or.jp/wakauma/featured/
林神社(奈良・漢國神社内)
https://kangou-jinja.jp/manju/
橘寺(奈良)
https://tachibanadera-asuka.jimdofree.com/
さてあん庵のホームグラウンドである羽曳野市の「市の木」は「橘」です。羽曳野市は正直知名度は低い(16%(知名度.net調べ))なんですが、歴史ある町で非常にいい町です。たちばなを広める会というものもあり、菓子屋としても誇り高い町です。
たちばなを広める会
https://www.facebook.com/habikino.tachibana/?locale=ja_JP
菓子屋にとって特別な果物。それが「橘」です。
●お菓子作り紹介(和菓子職人あきらYoutubeチャンネル)https://youtu.be/Ol1nHE2v00E
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身を清める為?にたまにお伊勢さんに参ります。神社は全て神聖な場所ですがやはり伊勢神宮はその中でも特別というか、涙が出るほど素晴らしい場所、聖地であるというのは説明する必要もない事ですね。
伊勢神宮 https://www.isejingu.or.jp/
伊勢神宮には式年遷宮という制度があり、第62回の時の記憶は新しいのですがそれは平成25年だったので既に10年が経っています。20年に一度の式年遷宮なので、もう半分の時が過ぎ、10年後には第63回の式年遷宮が行われます。途中120年ほど中断したりと必ずしも順調に続いたわけではないですが、1300年も続く行事って本当にすごい事です。
世界的に見てもこれほど長く続いている国はありません。皇帝が続いた国はありますが、普通は次の君主が現れた時、前の皇帝や王様は粛清されていきます。見かけ上、皇帝という制度は続いていますが、他人がその地位を奪って皇帝を名乗るという構図となります。
日本は主権が武士に変わった時期も多々ありますが天皇制度そのものは現在に至るまでずっと続いています。それどころか先に書いた「120年の式年遷宮の中断」を再開したのは、織田信長・豊臣秀吉が遷宮費用を献納したためでした。江戸時代もこうした敬神の念は徳川将軍家に受け継がれ、造営奉行に命じて式年遷宮の全面的な協力を命じたという事です。
さてさて、伊勢神宮のお話しはもっとしたいのですが、お菓子屋のブログらしくお菓子についても書かなければなりません(笑)
伊勢名物のお菓子といえば?
そうですね。赤福餅ですね。(お福餅さんすみません・・・)
和菓子の事を知らなくてもお菓子に興味が無くても「赤福餅」は知ってる人は多いと思います。大阪でもお土産菓子売り上げの常に上位に君臨します。大阪の菓子屋としては悔しいですが、美味しい事には違いありません。それに前回のお伊勢さん菓子博やおかげ横丁などの社会貢献度もすさまじいものがあり、尊敬できる企業の一つです。
●お菓子作り紹介(和菓子職人あきらYoutubeチャンネル) https://youtu.be/Ol1nHE2v00E
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今は、何気なく「和菓子」と言う言葉を使っていますが、案外「和菓子」という言葉ができたのは、最近の話なんですね。要するに、「洋菓子」の文化が入ってくるまでは、お菓子の事は単に「菓子」と呼んでました。
「洋菓子」が入ってくると、単に「菓子」では、どちらの菓子のことかが分からないので、「洋菓子」に対して「和菓子」と呼ぶようになったのです。それは明治時代の話です。最近じゃない?
それではその「和菓子」が今日に至るまでどのように進化していったのか少しずつお話ししていきたいと思います。
縄文時代には和菓子の原型と言われるものがあったとされています。木の実を粉砕して、水でアクを抜き丸めたもの。これが団子の始まりと言われてます。今の和菓子とそのまま比較は出来ませんが、主食ではないおやつとしての役割があったとすれば、それは立派な和菓子ではないでしょうか。
弥生時代に入ると土器などもちょっと洗練されて行きますよね。見た目の派手さや重厚感は縄文式の方が勝っているので縄文式土器ファンも多いと思いますが、弥生式土器は技術力がアップしています。
着飾る縄文式より見た目はシンプルになり、土器の厚さも薄くなりました。土器を高温で焼くことから強度がアップしました。形も甕型が出始め、そしてなんと「フタ」を付けることに成功し、貯蔵できる食物の幅が増え、調理の多様性にも対応できるようになりました。
現代でも調理器具や厨房の設備、形状で作れる食べ物が変わりますよね。小学校の家庭科室と百貨店の厨房では作れるメニューの幅が違いますし、洋菓子屋の工房と和菓子屋の工房では共通部分もありますが、作れる種類がまるで違います。縄文時代から弥生時代への進化はすさまじかった事でしょう。
もちろんそれに伴ってお菓子も進化していきます。単に木の実の粉を丸めたようなものだったのが、米や穀物から現在のお餅や団子の原型が作られていくようになりました。
今のように学校とかスポーツとかゲームとかあった訳ではないと思うので、お菓子作りは子どもにとっては何よりの楽しみだったかもしれませんね。
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